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〇浄土真宗の教え

阿弥陀仏(あみだぶつ)のはたらきによって信心(しんじん)を恵まれ、念仏する人生を歩みます。この世の縁が尽きる時、浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教え導きます。

浄土真宗は「祈りなき宗教」です。
私の方から祈ってすくわれるのではなく、むしろ逆に、阿弥陀仏の方から「悩み苦しむあらゆる人々をすくいたい」と願われ、そのはたらきによって私がすくわれていくところに、浄土真宗の真髄があります。
自分の生き方や考え方などの『自己点検を繰り返す』のが本来の仏教といえるとの考えに浄土真宗では重きを置きます。

「お守り」や「おみくじ」はありませんか?といったご質問を頂く機会があります。
浄土真宗の寺院である善照寺には、ありません。

例えば…厳しいようですが「病気が治りますように」「試験に合格しますように」など、自分の欲望を仏さまに押しつけるような行為は、仏教の因果(いんが)の道理(どうり)からもありえないことです。
ですから、浄土真宗は自分勝手な祈りを説きません。

しかし、頭ではわかっていても、私たちは自らが大切とする者のために祈らずにはおれない不完全な存在なのです。

その願わずにはおれない私達の心を、阿弥陀仏は大きなお慈悲の心で包んで抱きとめてくださっているのです。
 

私たち人間が不完全であるということを阿弥陀仏は見通され、私たちが願うよりも先に、すでに私たちに向かってはたらきかけていてくださいます。
ですから、そのはたらきをそのまま受け容れ、感謝する以外にないのです。

〇聖典(せいてん)

 

聖典は「お聖教(しょうぎょう)」とも呼ばれ、浄土真宗のすくいの教えが示されている大切なものです。
釈尊(お釈迦さま)が説かれた「浄土三部経」(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)。
親鸞聖人が著述された主な聖教の『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』。
中興の祖・第8代蓮如上人のお手紙『御文章』などがあります。

 

蓮如上人は、「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」
ご本尊にお礼をすることとお聖教をつねに拝読することを勧められています。
お聖教は、釈尊や親鸞聖人をはじめとした方々が心血を注いで、浄土真宗の本義をおさとしくださったものです。
何度も繰り返し読み、言葉の意味をよく噛みしめ、味わうことが大切です。
お寺でご法話を聞くなどして、正しいみ教えを味わっていくようにしましょう。

〇宗祖(しゅうそ)

親鸞聖人(しんらんしょうにん)です。承安3年4月1日(1173年5月21日)に誕生され、9歳で出家されました。
比叡山で20年間厳しい修行に励まれましたが、さとりへの道を見いだせず山を下り、法然聖人(ほうねんしょうにん)の導きで、自分にとって専修念仏(せんじゅねんぶつ)こそが唯一の道であると気付かれました。
35歳の時には、念仏弾圧で越後(新潟県)に流罪となられましたが、その後、関東へと移られ念仏のみ教えを広められました。
晩年は、京都で『教行信証』や『和讃』などの執筆に力を注がれ、人々にみ教えを伝えられました。弘長2年11月28日(1263年1月16日)に90歳で、往生されました。

 

〇「戒名」ではなく「法名」

 

浄土真宗では「戒名」とはいわず「法名(ほうみょう)」といいます。

浄土真宗は厳格な規律である戒律を授かる教えではないからです。
必ずすくい浄土へ迎えとるという阿弥陀仏のはたらきを「法」と呼び、その法のなかに生かされる私たちがいただく名前であるので「法名」というのです。

 

出家せずに浄土真宗の教えのもとに社会生活を営む仏教徒としての名前です。

法名は、帰敬式(ききょうしき)を受けて授与されます。「仏弟子」となった証しとして本願寺住職(ご門主)から名づけられる「釋○○」という名前です。
「釋」の字を冠するのは、釈尊の弟子となることを表しています。「○○」の2字は、すべてお聖教(しょうぎょう)のお言葉からです。

法名をいただくということは、み教えの言葉を人生の鏡として生きていくことの表明でもあるのです。
ですから、「法名は死んでからの名前」ではありません。今日、ただ今の私たちが、阿弥陀如来のお慈悲に支えられ生かされていることに気付かせていただくのです。
帰敬式を受式して、法名をいただきましょう。

 

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